通常そばを練るときには、水を使用するのですが、その水のかわりに「お酒」を使って練ったのが、 当店自慢の酒そばです!
お酒は富山で人気の地酒を使っています!
お酒の風味と香りが、 そば本来の風味と香りにからみあい、今までにないおいしいおそばができあがりました!
そば通、お酒通と呼ばれる方の中には、そばを食べ終わった後に
「残ったそばつゆに酒を少し足して飲む」のが最大の楽しみといいますよね。
まさしくお酒好きの方には、もう「たまりませ~ん!」っておいしさです♪
でも、お酒の苦手な方でもご安心くださいね! アルコール成分はそばを茹でた時にほとんど飛んじゃいますから、 お子様でも安心して食べられますよ!
(※但し、アルコールに弱い体質の方や小さなお子様はご注意ください。)
そばを茹でたあとのそば湯は ほのかなお酒の香りと旨味がでており、 それはそれはえもいわれぬおいしさ!
そばのお味から、香り、はたまたそば湯まで、 全てがたまらなぁ~いのが酒そばです♪
いつもの「そば」とは違う、ちょっとリッチなひと時を「酒そば」でお楽しみください♪
★これは珍しい!ひそかな噂を呼んでいる★こだわり酒そば
当店売れ筋NO1がこの「こだわり酒そば」です!
「こだわり酒そば」は、その名のとおり、
原材料にこだわり、厳選した、国産の原材料を使用しています!
■こだわり・その1:そば粉■
そば粉は、日本有数のそば処信州・安曇野(あずみの)産のそば粉を、 石臼にて、丁寧に、丁寧に、粗挽きしたものを使用しています。
北アルプス山麓長野県安曇野市一帯の地域は、 名水百選「安曇野わさび田湧水群」で知られる日本有数の名水の土地です。
清らかでミネラルが豊富な水によって、味も香りも素晴らしいそばが育まれます。
■こだわり・その2:製法
このそばの味と香りを最大限引き出すため、 製法にもこだわっています♪
そばの実を製粉する際、これまでの方法ですと、 機械製粉のためかなりの熱が発生し、 そば本来の香りが失われてしまいます。
昔ながらの石臼を使ってゆっくりと、丁寧に、丁寧に、挽くことによって、 そばの実の甘皮と呼ばれる部分をも一緒に挽きくるんだ、 そば本来の香り一杯の粗引きの「そば粉」にしています。
■こだわり・その3:小麦粉
小麦粉は北海道の大地が、育んだ小麦粉を使用しています!
北海道産小麦の特徴は、風味がよく、 その豊で広大な大陸同様、豊かな味わいを大切にし、そばの風味を最大限に生かす粉です。
■こだわり・その4:お酒
地元富山で人気の地酒を使用しています。
富山県は、三方を北アルプス立山連峰などの、山岳地帯に囲まれており、 中央には実り豊かな平野が広がっています。
富山湾、日本海へと開けている天然の巨大ダムともいえる山々からは、 一年を通じて豊かで、清らかな水が生まれるんです!
豊かな大地と清らかな水に育まれた米どころ富山は、日本でも有数の酒どころでもあります。
酒そば本舗の酒そばは、富山で人気の地酒を使用しています。
2014年09月09日
天皇の遊び「クロックノール」
先の天皇が崩御され平成の御世になってから早四半世紀が過ぎ、今上天皇も80歳のご高齢となられたました。
俳人中村草田男が「・・・明治は遠くなりにけり」と詠んだのは、昭和6年のことだそうです。明治34年生まれの草田男30歳の冬のことだったといいますから、明治の御世が終わってから数えて丁度20年。研ぎ澄まされた俳聖の感性と毎日を惰性で生きている私の感性を比較すること事態可笑しな事かもしれませんが、平成の御世になって26年、「昭和も遠くなりにけり」と呟きが出ても不自然ではないような気がしてきます。
先ごろ昭和天皇87年の実録が宮内庁より発表されました。戦前・戦中の政治に関わる部分は、とりわけ歴史学者の注目を集めるところでしょうが、そこは専門の学者に任せるとして、私が注目したのは、ご幼少のころ夢中になられたという遊びについて。戦後自ら神格を否定され人間であることを宣言された陛下でしたが、ご幼少のころ夢中になられた遊びのことを思えば、陛下の置かれたお気の毒なお立場が偲ばれます。
ウエブニュースより
昭和天皇実録:謎の遊び「クロックノール」
記事によれば、8歳当時、沼津御用邸の学習院仮教場で3学期の授業が始まった1910(明治43)年1月、「午前は学習院の授業、午後は御用邸内においてジャーマン・ビリヤード、人取り、玉鬼、相撲、クロックノールなど種々のお遊び」とあります。
先の陛下は長じられてからは大の「大相撲ファン」で、よく国技館に足を運ばれたのでしたが、すでにご幼少のころから「相撲好き」が培われていたことが分かりますね。
「クロックノール」なる遊びが不明だとのことですが、「人取り」、「玉鬼」なる遊びもよく分かりません。(笑!
下々の間でいうところの「鬼ごっこ」のようなものなのでしょうか?
遊びがどのようなもであったかどうかは別として、午前中は「勉学」で、午後からずっと「遊び」だったという当時の明治政府の教育方針は、あくまで人間天皇に対するものであったことが窺えて、ひじょうに興味深いものがあります。